Column
福島第一原発事故から学ぶ、放射線と行動判断
Author :アドバイザリーボードメンバー 石津浩一
目次
怖れていたのは「放射線」ではなく「分からなさ」
福島第一原子力発電所事故の直後、福島県の方々だけでなく、関東地方を含む広い地域で、多くの人が強い不安を感じました。それは「放射線」という言葉が持つイメージの強さに加え、何がどの程度危険なのか、自分で判断するための材料が手元になかったことが大きな理由だったように思います。
当時、放射線や被曝に関する情報は決して少なくありませんでした。むしろ数値や専門用語は大量に示されていました。しかし、その多くは断片的で、比較や前提条件が示されないまま伝えられていました。その結果、「今振り返れば、やらなくてもよかった行動」「むしろ別のリスクを高めてしまった行動」が数多く見られました。本稿では、そうした事例を振り返りながら、知識がどのように行動を変え得るのかを考えてみたいと思います。
水道水と放射性ヨウ素 ― 基準値の意味を考える
事故後、東京都の一部の地域で水道水から放射性ヨウ素(I-131)が検出され、乳児に対して飲用を控えるよう通知が出されました。
ここでまず押さえておくべきなのは、水道水の基準値がどのような考え方で決められているかです。飲料水の放射性物質の基準値は、「その水を 長期間(基本的には毎日)飲み続けて年間の追加被曝線量が十分低く抑えられる」という前提で設定されています。さらに、個人差や不確実性を考慮し、実際に健康影響が現れると考えられるレベルよりも10~100倍程度の安全余裕を見込んで決められています。
つまり、基準値は「ここを超えたら直ちに健康被害が出る境界線」ではありません。「この水をずっと飲み続けると、注意が必要になる目安」であって「ずっと飲み続けても健康被害が出る確率は低い」という値です。
当時、東京都の水道水で報告されたI-131の濃度は、最大でおよそ 200 Bq/L 前後でした。ここで、あくまでオーダー感をつかむための簡単な計算をしてみます。
- 濃度:200 Bq/L
- 飲水量:1日1 L
- 期間:1年
この条件で計算すると、甲状腺への被曝線量は 年間で1 mSv未満程度になります。これは、日本人が自然界から受けている放射線(年間数 mSv)や医療被曝(CT検査1回で数 mSv)と同じオーダーか、それ以下です。
重要なのは、これは「1年間ずっと飲み続けた」と仮定した場合の評価であるという点です。つまり、当時の水道水は短期間飲んだからといって健康影響が生じる水ではなかったと言えます。
雨に濡れることへの過剰な不安
事故後しばらく、「雨に濡れると放射性物質を浴びるのではないか」という不安が広がりました。外出時に傘を二重にしたり、帰宅後すぐに衣服を処分したりする人もいたそうです。
しかし、放射性物質が雨に含まれる場合でも、皮膚表面に付着する量はごくわずかですし、付着しても、衣服を脱いで洗う、シャワーを浴びることで容易に除去可能だという性質があります。短時間の雨に濡れることによる被曝は、線量的に見ても問題になるレベルではなかったと思われます。一方で、雨を極端に恐れることで外出を避け、生活リズムが乱れたり、心理的ストレスが長期間続いたりすることの影響は、決して小さくなかったはずです。
子どもの外遊びを全面的に禁止する判断
放射線への不安から、子どもを屋外で遊ばせないという判断をした家庭も多くありました。これも親として自然な感情だと思います。ただし、当時の多くの地域では、屋外で数時間遊んだとしても、追加の被曝線量は極めて小さいレベルでした。一方で、長期間にわたって外遊びを制限することは、運動不足、ストレスの増大、社会的な発達への影響といった別の健康リスクを伴います。
放射線リスクだけを切り出して最大化するのではなく、他のリスクと並べて比較する視点が必要でした。
「被ばくはゼロでなければ危険」という間違い
福島事故後、「放射線は少しでもあれば危険だ」という考え方が広く共有されていたのかなと思います。しかし、放射線防護は本来「あるか・ないか」で判断するものではありません。これまでもお話してきたように、私たちは日常生活の中で、自然放射線や医療被曝など常に放射線を受けています。重要なのは、どのくらいの量か、どのくらいの期間か、他のリスクと比べてどうかという相対的な評価です。
知識は恐怖を小さくするための道具です
知識は、得体の知れない不安を、管理可能な「リスク」という変数へと変換するための精密なツールとも言えます。水、食料、睡眠、家族の安全。そうした基本的な要素と比べて、目の前の放射線リスクはどの程度なのか。福島第一原発事故で多くの人が経験した混乱と不安が、次に同じ状況が起きたときの冷静な判断につながるなら、その経験は決して無駄ではありません。
測ること、そして「測られた値を使う」こと
放射線は目に見えません。匂いも音もなく、感覚だけで存在を判断することはできません。だからこそ、放射線に向き合ううえで最も重要なのは、感情や印象ではなく、計測された線量に基づいて状況を把握することです。
もちろん、現実には一人ひとりがガイガーカウンターを持ち歩き、常に測定しながら生活することはできませんし、そこまで求める必要もありません。測定には、機器の校正、測定条件(高さ、時間、場所)、単位や検出限界の理解といった前提知識が必要で、誰でも正確に扱えるものではないからです。
しかし一方で、「測れないから分からない」「分からないから怖い」と立ち止まってしまう必要もありません。事故時には、国や自治体、研究機関や大学、放射線防護を専門とする組織によって、多数の測定が行われ、その結果が公開されます。大切なのは、そうした信頼性のある測定値を参照し、それを行動判断に結びつけることです。
数値そのものを見ることよりも重要なのは、その値は「どこで」「どのくらいの時間」測られたのか、短期的な変動なのか、長期的に続くものなのか、自然放射線や日常的な被曝と比べてどの程度なのかといった文脈と一緒に理解することです。
福島第一原発事故の際、多くの測定データは存在していました。しかし、それらが行動判断にうまく結びつかず、「測られているのに不安が減らない」という状況が生まれました。これは、計測が足りなかったというよりも、計測された値の意味が十分に共有されていなかったという問題だったのだと思います。放射線に限らず、科学的なリスクはすべて「測って、比べて、判断する」ことで初めて扱えるものになります。
次に同じような事故が起きたとき、私たちに必要なのは不安や恐怖を打ち消すことではなくて、信頼できる計測値を基に現状を把握し、他のリスクと比較しつつ冷静に行動を選ぶことです。
事故から得られた教訓
最後に、今回お話ししたことですが 著者個人の感想や一面的な意見ではもちろんありません。福島第一原子力発電所事故からの10年以上にわたる研究と実測値の蓄積、国内外の公的機関・研究者による評価は、放射線に関して以下のような共通点を示しています。
・放射線リスクを理解するには、計測データと背景情報のセットで判断することが不可欠であるということ(WHO、IAEA の評価資料)
・放射性物質の濃度や線量を単純な怖さで解釈するのではなく、比較し評価する視点が重要であるということ(環境省・文部科学省のモニタリング指標)
・水道水の放射性物質に関しては、乳児に関する注意基準や飲用制限が示されつつも、基準値を超えた場合の対応には「代替水がない場合は飲用しても差し支えない」という考え方が含まれていること(厚生労働省 水道水報道資料)
これらは 政府機関や国際機関が示してきた公式な情報や評価に基づき、放射線防護の基本原則として広く共有されてきたものです。
もちろん、実際の事故直後は多くの人が不安や混乱の中にあり、理論的に行動すること自体が大変だったと思います。だからこそ、時間を置いて振り返り、信頼できる計測値と科学的知識を基に冷静な判断ができるよう備えておくことが、次に同じような事態が起きたときに役立つ教訓になると考えています。
参考リンク(公的機関・国際機関)
- ・WHO FAQs:福島事故における被曝評価と健康影響に関するまとめ(World Health Organization)
- ・IAEA 福島原発事故環境モニタリング報告(International Atomic Energy Agency)
- ・放射性物質規制基準の考え方(環境省/ICRPに基づく基準設定)
- ・厚生労働省「水道水中の放射性物質の検出について」(事故当時の測定と対応)
この記事を書いた人
石津 浩一
Koichi Ishizu
アドバイザリーボードメンバー
京都大学大学院医学研究科 人間健康科学系専攻 准教授
京都大学医学部付属病院核医学科 医員
Denmark Aarhus University PET Centerに留学
県西部浜松医療センター附属診療所 先端医療技術センター 副医長
福井医科大学高エネルギー医学研究センター リサーチ・アソシエイト
京都大学医学部附属病院放射線部 助手
京都大学大学院医学研究科 放射線医学講座(画像診断学・核医学) 講師
京都大学大学院医学研究科 人間健康科学系専攻 准教授
専門
日本医学放射線学会会員 放射線科専門医
日本核医学会会員 核医学認定医、PET核医学認定医
産業医 認定産業医

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